雲仙・島原歴史紀行 湧水と火山とキリシタンの町をいく

 島原半島の中心・雲仙岳でたっぷり遊んだ後は、島原の旅の締めくくりとして、再び島原の乱に関係するスポットを紹介します。
 雲仙温泉街から、島原半島の南海岸にある南有馬町を目指し、蛇行した山道を下ります。途中まで「あれ?海は?」と言いたくなるほど田園風景が続きますが、しばらくすると、林の向こうにキラキラ光る有明海が見えてきます。海の向こうにはばっちり天草諸島も見えます。

 おお、熊本だー!こうやって外から熊本を眺めると、県外に来たんだなあと実感してしまいます。さらに海岸沿いの251号線を走ると、「原城跡」の案内板を発見しました。原城は、天草・島原の乱の一揆軍が最後に立て籠もった城として有名です。

 これが原城跡です。三方向を海に囲まれた岬の上にあります。お城自体は残っていないのですが、石垣がわずかに残っています。そのとき突然「バーン」という鉄砲のような音が鳴り響いたので、私はビクッとして周囲を見回しました。どうやら鳥を脅すため畑に鳴らしているようです。ふう、びっくりした。

 城跡の入り口には、原城と島原の乱について説明してある案内板があります。よく見ると音声で説明が始まるボタンもついています。
 この原城は、キリシタン大名で有名な有馬氏の居城であった日野江城の支城として、1496年に築城されました。有明海に面した周囲3キロの岬を利用した長崎県下最大の平山城で、海水が城の周囲に堀をつくり、南に流れる川が入江をつくる天然の要塞です。さらに東側は断崖絶壁でそこに本丸があり天守閣が建っていたようです。その姿の見事さゆえに、別名「日暮城」とも呼ばれていました。1614年、有馬氏が日向国(宮崎県)に転向されると、その後1616年に大和五条から松倉氏が入部し、一国一城令により原城を廃城として、島原城を築城しました。島原城築城の際には、この原城の石垣も使われているそうです。

 松倉氏は大和五条からの移動の際に使い切った財産を補うため、そして島原城の築城のため、領民へ過酷な賦役と重税を課しました。当時の天草・島原地方は、天災による凶作も重なり、領民たちは窮乏のどん底に追い込まれていました。その上、幕府のキリシタン禁教令に従い、当時の天草の領主と島原の領主はキリシタン信徒に残酷な迫害を加え、改宗を迫りました。それは生きながら海に投げ込んだり、火あぶりの刑に処したりとむごたらしいものでした。こうやって、信仰と年貢の両面から人々は追いつめられていきました。

 そしてついに1637年10月25日、ついに領民の不満が爆発しました。天草四郎時貞を盟主として、キリシタンの信仰を団結のよりどころにした「島原の乱」の勃発です。ここ原城には、12月3日から翌年2月28日まで、天草と島原の領民約3万7000人がたてこもりました。天草側からは1万4000余人が、島原側ではほとんどの領民2万3000余人が参加したそうです。

 一揆軍は原城に88日立て籠もり、幕府軍12万5000人の大軍勢を相手に必死に抗戦しましたが、抵抗むなしく翌1638年2月に原城は落城、見せしめとして老若男女の関係なく全員殺されました。島原の乱は徳川幕府の治下で最大の反乱ともいわれ、その後幕府が鎖国体制を確立する基盤ともなりました。

 その後、天草・島原地域には領民がいなくなりました。領民のほとんどがキリシタンだったことがうかがえます。それほどまでにキリスト教は領民の間に浸透していたのです。領民を失った領地には、全国各地から多くの移民がおこなわれたそうです。

 子供の頃に読んだ本では、神童の天草四郎少年に関する言い伝えや、一揆軍が一時的に勝利を収めた古戦場の写真などを知ってはいたのですが、どうも実感が湧かず伝説めいたイメージが先行していました。だけど実際の島原の乱は、重税を課し生活を圧迫する領主への不満と、信仰を弾圧されることへの反抗という、民衆の悲痛な思いが込められたまぎれもない歴史上の事実だったのです。

 城跡は現在公園になっていて、人々や猫が昼下がりの一時をのんびりと過ごしています。大きな白い十字架には、島原の乱で殉教したキリシタンたちの追悼の意を込められているのでしょうか。ほかにも、200年以上経過している天草四郎の墓石や天草四郎像など、天草四郎に関するものが特に残っています。

 よく晴れた海の向こうに、くっきりと天草諸島が見えます。いつも天草のほうから雲仙岳がそびえる島原を見ているので、いつもと逆で何だか不思議な感じです。しかし、本当に近い!肉眼でも対岸の港や船や民家が確認できるほどです。この近さだと、昔から両地域でさまざまな人的・経済的・文化的交流があったのもうなづけます。

 天草諸島と島原半島のちょうど中間に、周囲4Kmほどの小さな島が浮かんでいます。天草郡大矢野町の湯島という島で、天草・島原の乱の際に一揆軍がしばしばこの島で会合を行ったので「談合島」とも呼ばれています。 湯島の人はみんなキリシタンだったので、天草四郎に従って原城へ赴き、亡くなったそうです。

 200年の昔の出来事に思いを馳せつつ、島原外港に戻りました。楽しかった一泊二日の島原旅行ももう終わりです。港の近くでお土産を買うと、再びオーシャンアローに乗り込みます。往路の元気はどこへ行ったのやら、帰路はリクライニングシートに深々と沈み、ぐっすりと眠ってしまいました。30分後にはもう熊本に戻るので寝過ごさないかちょっぴり心配です。まさに「安・近・短」旅行にぴったりの島原半島、みなさんもぜひ行かれてみてはいかがですか?

●お問い合せ
原城跡
長崎県南高来郡南有馬町
お問い合せ:原城観光協会 TEL(0957)85-2153
原城駅より徒歩15分

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