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菊池神社、まちかど資料館
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まちかど資料館 今坂さん
「菊池は、古くは国防の山城が建てられ、中世に入ると豪族・菊池氏の統治下で栄え、江戸時代から昭和にかけては米と養蚕と木材の三大産業で賑わったまちです。菊池市内には名所史跡が数多くありますので、ごゆっくり散策されてください。」
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菊池神社
菊池渓谷へ向かう丘の中腹に、菊池神社があります。ここにはかつて自然の要塞を利用した山城が建っていました。663年、大和朝廷は唐・新羅の連合軍に敗れたため、福岡に大野城、佐賀に基津城、そして熊本に久々知(くくち)城を築いて守りを固めました。平安の世には菊池を族称とした豪族の居城の役割を果たし、江戸時代の細川藩の治世を経て、明治初期にこの城跡に菊池一族を祀る菊池神社が建立されました。
境内
鳥居をくぐり門へ続く長い石段からは菊池市街地が一望できます。掃き清められ静寂に包まれた境内に足を踏み入れると、砂利を踏みしめる音だけが響きます。秋の冷たい風と、ぴんと張りつめた空気が心地よく感じます。
歴史資料館
境内には歴史資料館が併設されており、菊池一族24代の関係資料が約400点展示されています。菊池一族は、平安中期の1070年、太宰府の高級役人として肥後に赴任した藤原則隆が、菊池川の舟運に便利な菊池市深川に館を構え菊池の姓を名乗ったのが始まりです。
以後462年、24代にわたり朝廷に尽くしてきました。1338年、菊池氏13代武重は菊池惣領と庶子一族の代表者によって構成された重臣会議で、「寄合衆の内談の事」と題した起請文を出しました。一族の団結と繁栄を願ったもので、後に「菊池家憲」と呼ばれています。 これは、第22代菊池能運公画像と併せて国の重要文化財に指定されています。また、菊池平野全体のジオラマもあり、スイッチを押すと神社や城跡、史跡、要塞跡(十八外城)が光り、位置がよくわかります。他にも鎧兜や人物画、数々の歴史的文献が展示され、どれもたいへん興味深く、ゆっくり時間をかけて見たいところです。
まちかど資料館
次の歴史探索の場所は、菊池神社の鳥居からほど近い隈府という地区にある「まちかど資料館」です。白壁の蔵のような建物は、菊池市民の皆さんの作品を紹介する「まちづくり寄合所」と併せて「わいふ一番館」と呼ばれています。菊池温泉のお客が立ち寄ったり、市内の学生が教育の場として利用しているそうです。
資料館では菊池出身の各界著名人の紹介や菊池の歴史、産業に関する資料を展示しています。
菊池の概要をわかりやすく教えて下さるのは、当資料館の今坂さんです。
今坂さん:「菊池は古くから菊池川の水運の要所として、豊穣な穀倉地帯として、山岳地帯を天然の山城に活用した要塞として重要な役割を果たしてきました。平安・鎌倉・室町時代には菊池一族の統治のもと、九州の政治・経済の中心地、九州の小京都として繁栄しました。南北朝時代には後醍醐天皇の皇子・懐良親王を奉じ、九州を統一し、征西府をこの菊池に置きました(後に太宰府に移された)」 菊池川に抱かれた穀倉地帯、天然の山城・・・豊かな土地ゆえに豪族が栄え町も繁栄したんですね。 今坂さん:「江戸時代から昭和中期にかけては、米と養蚕と木材の三大産業が栄えました。特に養蚕は、菊池を含む県北地域だけで県内の約半分を生産していたくらいです。町の至るところに養蚕所や桑畑が見られ、活気があふれ、日田や小国の人も菊池に買い物に来ていました。菊池米は、江戸時代から明治にかけて100年間、最高級米として讃えられました。米俵を舟に山のように積んで菊池川を下り、河口の玉名まで運び、長州港から大阪港まで出荷していました」
全国区のブランド米を収穫していたなんて、熊本県民としては誇らしい気持ちになります! 今坂さん:「町が賑わえば文教も盛んになります。室町時代、菊池氏21代重朝は、孔子堂を建てたり1日1万句の連歌の会を催すなど、武力中心のこの時代にあって学問を重んじました。江戸時代中期に一般階級の武士や庶民階級の人々にも学問が浸透しはじめると、渋江紫陽をはじめとする多くの人たちが私塾を設け、学問教育の振興に尽力しています。幕末には寺子屋も数多く建てられました」 戦後は温泉も発掘され、県内有数の温泉街に発展した菊池。多くの観光ホテルや温泉旅館がひしめき、九州各地から観光客が訪れています。防衛・政治・産業・文教・・・常に活気に彩られた町の歴史に触れ、またひとつ菊池の魅力を知ることができました。
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